最近、なんだか差別について考えることがある。
たぶん、きっかけは友達と「ちびくろサンボ」がずいぶん前に廃刊になった話だったと思う。
今までの認識としては、ある親子3人が「ちびくろサンボ」は黒人蔑視だみたいな感じで動いたために、いきなり廃刊になってしまった、っていうぐらいのモノだったんだけど、気になって調べてみたら、「ちびくろサンボ」issueは結構奥が深かった。
大体、廃刊されたと思ったけど、また復刊したらしいし。
ココなんかは、そこから張られているリンクを含め、「ちびくろサンボ」に関することが良くまとまっていると思う。(別に書いているヒトの意見に100%賛成するわけじゃないけど)そこに張られていたリンクを辿って行き着いたのが、京都産業大学の灘本昌久助教授のweb siteである。
ただの学者のページなんかだったら読みたいと思ったかどうかも疑問だけれども、目を引いたのが、彼自身が部落出身で、部落解放運動にも関わっているという点である。
すごくラフに言って、差別と戦おうとしている立場の人間でさえも、「ちびくろサンボ」の廃刊に関しては極めて違和感を覚えたわけで、「ちびくろサンボ」問題と差別に関して様々なarticleを残している。(彼のページの「著作と活動」参考のコト)
彼の考え方は、それまでぼんやりしていたボクの考えがある程度カタチを成すのに力を貸してくれた。
一番気になっていたコトは、この「ちびくろサンボ」の問題やもっと一般に言って、差別の問題に関して差別を無くそうとする側の問題というのはないのだろうか?、というコトである。
大部分のヒトの「ちびくろサンボ」廃刊に対する反応として、「ん?あれのどこが差別なの?」「なんで廃刊にならなければいけないの?」という疑問は当然だとボクは思っていた。確かに、「ちびくろサンボ」の問題を論じるいくつかのweb siteで言及されているように、ステレオタイプの形成、という問題はあるにせよ、ただ単純に「ちびくろサンボ」のお話を楽しんでいたヒト達が大部分だったと思う。
にも関わらず、それに対し非難の声を上げ、廃刊に持っていくという行為がボクには信じられないし、極めて違和感を感じるものであったことは間違いない。廃刊されたのは1988年のコトだけれども、高校のクラスメイトの名前や顔をどんどん忘れていく様なボクでさえ、そのことをしっかりと覚えているくらいである。
差別用語として既存の言葉を定義してしまうことは、それ自体が差別的な行為なのではないだろうか?
もちろん水平社のような部落解放運動は差別されている側がその差別を無くそうという運動なので、ボクにとっては至極当然のコトのように思えるし、それに対してボクが異議を唱える立場にはいない。しかしながら、「ちびくろサンボ」の件の様に全く当事者以外が声を上げることが多々ある。
例えば、マスコミなどに対する抗議の電話などの大半は
「運動団体ではなくて一般の善意の市民、比較的年配の人」達であることを灘本昌久助教授は指摘している。これは人々が無意識的に持っているかもしれない偽善性の現れではないだろうか?ちなみに、これは偽善性であって偽善ではない。もし、そのようなヒト達が電話をかけることで、何らかの満足感に浸っていることがあるとするならば、まさしくそれは偽善以外のなにものでもないと思う。
そのような問題に対して、議論が巻き起こるわけではない。なぜなら、端的に言ってしまえば面倒くさいからである。議論を巻き起こせば、偽善性を持ったヒト達からは悪い評価しか得ることが出来ない。難しいことを考えずに、とりあえず使用禁止用語リストの末端に加えておけば、何の被害も受けないからである。(かといって積極的に差別用語の使用禁止リストを作ったからといって誰からも評価されるわけではない。なぜならNG wordを使わなかったかの監視の目が光っているだけで、いかに使わないかで評価される仕組みはどこにもないからである。)
そのような抗議と「臭いモノにはフタ」的な対応で本当に差別を無くそうなんて考えているヒト達がいるならば、めでたいことである。
大体、近年の差別用語問題が行き過ぎていることは、誰の目にも明らかである。灘本昌久助教授がこんなエピソードを紹介している。
たとえば、有名なところでは「馬鹿でもチョンでも」のチョンが朝鮮人をさしている差別語だ、という話がある。しかし、この表現は江戸時代に庶民が使っていた言葉で、「チョンまげ」や読点の「チョン」と同根の言葉であって、朝鮮とは何の関係もない。現に、私が大学で教えている朝鮮人学生自身が「自分の父親でも使っている言葉なのに差別とはおかしい」と私に苦情を言いにくるほどである。
その様な無駄な日本語におけるシバリは、明らかに不自然な言語を生み出すと思う。第一、差別用語を使わなければ差別ではないのだろうか?答えはもちろんNOである。差別用語を使わずに表面上politically correctな発言をしつつも、その下に潜む暗黙の感情や態度的に差別があったとしたら、表面的にはNGでないだけに一番タチが悪いと思う。誰かがその様な行動、もしくは態度によって差別感を味わったとしたら、極めて抗議しにくいことは間違いないだろう。
このような問題を考えるときに、差別される側のコトを考えないのは片手落ちである。差別される側に何も問題はないのだろうか?差別される側、差別する側両者に暗黙の了解があるのではないだろうか?差別されているということに寄り掛かっているとしたら、それは自分で自分を支えているようなものである。
アメリカにおける黒人を見ると分かりやすい気がする。彼らが歴史的にもそして今現在も様々なカタチで差別されていることは間違いないであろう。黒人達は差別されているということを所与として行動しているような気がしてならない。「我々は差別されている」「我々にもXXXする権利がある」的な主張が見え隠れするときがある。確かに、差別されている側がそれを解消しようとするときには、自ら主張しそれを解消すべく動かなければならないことは間違いないけど、自らの権利を主張することだけがメインになっていては本末転倒である。
「黒人は怠け者だ」というステレオタイプが存在すると主張する前に、自分が時間通りに行動することは大前提だと思う。
アメリカの大学では人種ごとの人数の割当があったりする。だから、極端な話、もしその黒人が白人だったらその大学に入れないというケースも当然存在する。これは、差別されているがゆえに優遇されているケースの一例なのではないだろうか?
もちろん、当然のことながら断っておかなければいけない。すべての黒人がそうだとは言っていない。友達の中に本当に真面目でいい奴もいる。でも、以前のMath for Economistsというクラスのクラスメイトで、全然分かっていないにも関わらず、自分のコトばかり主張し、宿題などでも徹底的にボクや他のクラスメイトをtake advantageしようとしていた女の子もいる。
話が少しずれてしまった…
それにしても、一般的に言って、差別用語の定義のような、ある意味上からの規制は果たして問題の解決策になりうるのだろうか?この疑問は「本質的」な解決策になりうるかどうかではなく、解決策の一つに考えても良いものなのだろうか、という意味である。
他の例を考えてみれば、女性の雇用問題は、男女雇用機会均等法の成立によって、何らかの変化をもたらしたのだろうか?田嶋陽子の様な運動は逆効果ではないのか?もう少し大きく考えてみて、言論というものは、この様な問題の解決に貢献するのだろうか?
*ちなみにこの段落の「か?」は反語ではなく純粋な疑問である。
今考えていることが正しいとは思わない。少なくともボクにはまだまだ差別とかを考えるに十分な知識や経験があるとは思えない。イロイロ興味を持って探っていこう。
なんせ、まだ出発点に立っただけだから…
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